ハンス・ロットの交響曲第1番

ハンス・ロット(Hans Rott、以下:ロット)の音楽を初めて知ったのは、今から5年前の2012年の事。何気なくチェックしていた、hmvクラシックの交響曲ニュース。

パーヴォ・ヤルヴィ指揮 / フランクフルト放送響(現:hr交響楽団)、
ハンス・ロット作曲 / 交響曲第1番の発売を報じたものが契機でした。

気になって調べている内に、

  • ロットはオルガニストでありブルックナーの愛弟子だった
  • ロットの音楽をブルックナーとマーラーが絶賛した
  • 案の定、第1回バイロイト音楽祭にも参列していた
  • マーラーの音楽と強い相関関係がある
  • ブラームスらに酷評され、精神を患い自殺未遂の末、僅か25歳で他界

等々、それまで知らなかった事を後悔するぐらい、衝撃的な作曲家を知ることになりました。初めて知ってから早5年、ロットの交響曲について改めて書いてみたいと思います。


■作曲の時代背景

作曲時期は1878年 – 1880年の間であり、これは

  • ブルックナーは3番の初演が失敗し、5番の作曲と4番の改訂中
  • マーラーが最初の交響曲第1番(当初は交響詩だった)を作り始めるよりも

だったことを決して見逃せません。

ロットの1番における全体的なオーケストレーションは、ブルックナーの交響曲と酷似しています。パイプオルガンさながらの響きを感じるのは、師匠譲りのことだと思わせます。当時の楽壇に理解されなかったブルックナーの音楽を彼は咀嚼し自家薬籠中の物にしたのでしょう。

一方、後年に生きる我々だからこそ、マーラーの音楽との類似性に意識が行きます。
詳しくは後述するとしても、ここではロットはマーラーのオマージュではなく、マーラーがロットのオマージュであることを、皆様に誤解なきよう断言しておきたい次第です。


■各楽章に想うこと

– 1. Alla breve

弦楽器の弱奏刻みから始まってすぐ、トランペットによる華やかな第1主題が現れます。この序奏部は、師であるブルックナーの交響曲第3番/第4番の序奏部を連想させるものです。交響曲の最初から金管による主題提示、というのは同じ2/2拍子でもあるシューベルトのグレートからの影響が見えますが、ソロのトランペットでやったとなると、それは斬新で奇抜なことに違いなかったでしょう。

“マーラーのトランペット”は、このロットの交響曲と彼の死から始まったのではないかと私は思っています。曲の随所に現れる、層の薄い場面からの急なクレッシェンドを伴う強奏もマーラーの先取りに他なりません。マーラーの音楽における強奏が”狂”奏になるのは、ロットの音楽を調べ尽くし彼の生涯と死とを深く悔やんだ故の必然なのかもしれません。

尚、ロットの死は1884年、マーラーが交響詩(後の交響曲第1番)の構想を練り始めるのも1884年とされています。私にはどうにも偶然とは思えません。

一方で主にテンポの扱い方、主題の展開法と場面転換には、ワーグナーを連想させるものを感じます。例えばローエングリン第1幕への前奏曲に見られる、上昇音型のモチーフに低弦の下降音型を絡ませる手法や、木管楽器による前置きのない第2主題の提示には、マイスタージンガー第1幕への前奏曲の「哄笑の動機」における起用法を連想せずにはいられません。

そして何より、展開部とコーダのオーケストレーションはブルックナーなのです。しかしブルックナーの音楽 ―交響曲としての構造美を追求した荘厳な音楽― と明らかに違うのは曲想です。どこか若々しくも、綺羅びやかであり、歌のようであり、やはりシューベルトやワーグナーのようでもあります。その繊細な歌唱の美と巨大な交響曲の美との融合こそ、後年マーラーが体現した美そのものではないでしょうか。

つまりこの1曲で、シューベルト〜ワーグナー〜ブルックナー〜マーラーに至る音楽の潮流を垣間見ることができるのです。真面目に言えばそういうことですが、それらを旧くから溺愛する身にとって、この上なく興味深く有難い1曲なのです。

– 2. Sehr langsam

美しいコラールと休止から始まりコラールで終わる2楽章は、ブルックナーでありブラームスでありマーラーであります。壮大なコラールはもう言うまでもなくブルックナー譲りであり、素朴な美しい主題はブラームスでありながら、後半の展開部から3楽章にかけてマーラーのような狂気とコラールの一見相反する美の体を徐々に成していきます。

– 3. Scherzo: Frisch und lebhaft

3楽章について、マーラーの音楽的世界観と切り離して記す術がこの世に存在すると私には思えません。スケルツォが豪快で巨大なものになって行く変遷を辿る内、ブラームスの4番3楽章、ブルックナーを経てから、マーラーに至るまでの間に存在する断崖絶壁において、このロットの1番を無視することは絶対に不可能なはずです。

その理由は、マーラーの1番2楽章と2番3楽章に他なりません。ロットの1番3楽章の主題が、1番2楽章の主題と酷似し、2番3楽章の中間部で突然、脈絡の無い強奏でほぼそのままの形で飛び出てくるのは、ロットとその音楽がマーラーへ如何に影響を与えたか、交響曲とは何かを考えさせたことを最も明らかに示すものです。

マーラーにとってみれば、ハンス・フォン・ビューローに拒絶された自分とブラームスに1番を拒絶されたロットの境遇を重ね、この主題を弔いとして哀悼を込めて登場させたことを想像するに難くないのではと思わずにはいられません。

  • 1番の”巨人”とは誰だったのか?
  • 2番の”葬礼”と”復活”というテーマの主語は何だったのか?

こういったナンセンスな問いに対し、ロットの1番3楽章は”もしかするとロットでもあったのではなかろうか”という悶々とした解釈を用意してしまいかねないと思います。これだけ思うことがあっても私は、ロットはロットであり、マーラーはマーラーであり、1番は1番であり、2番は2番であるとして個別に鑑賞するのが一番心地よく思います。過去の標題や関係性に囚われる必要などありません。それだけのものがそれぞれの音楽に宿っていると思うからです。

– 4. Sehr langsam – Belebt

マーラーの一部がロットのオマージュであったように、ロットの1番4楽章はブラームスの1番4楽章のオマージュであります。弦楽のピチカートから始まる冒頭部、中間の主題と提示部におけるオーケストレーションはブラームスのそれ以外の何物でもありません。

その後、ワーグナーのマイスタージンガー、マーラーに見られるポリフォニックな響きに支配されていきます。弱奏部にて漸く1楽章の第1主題の兆しが見え、そのまま展開が進み第1主題がよりポリフォニックに再現された後、黙祷するかのように弱奏のコラールのフィナーレにて終わります。マーラーの1番4楽章でも同じように1楽章の主題が弱奏から再現されており、このソナタ形式への拘りはロットの交響曲に見られるものの再現としても解釈することもできるでしょう。

それと今更ながら、この曲におけるトライアングルの存在を指摘しておかなければなりません。現代のマエストロの裁量により様々ですが、とにかくトライアングルが目立ちます。執着とも言える起用法は、さながら精神疾患の現れでもあるのでしょう。


■終わりに

交響曲の歴史の中、とりわけブルックナー〜マーラー間をつなぐ交響曲としての相対的な存在意義は嫌でもわかりますが、この曲そのものの良さ・美しさが広まっているとは思えません。まだまだ演奏機会・録音が少ないと思うからです。パーヴォ・ヤルヴィの一枚で完結してしまうような音楽では決してありません。

時間と金と機会と人、全て揃えることができれば、聴くだけに留まらずやってみたい曲の筆頭なのですが、夢のまた夢でしかありません。

  • R.Wagner / “Tristan und Isolde” Prelude to Act 1 and Isolde’s Liebestod
  • G.Mahler / Lieder eines fahrenden Gesellen
  • H.Rott / Symphony No.1 in E major

の3プロなんて如何でしょう?私しか得しませんかね…


// 編集履歴
2012年09月24日 初稿投稿
2017年10月01日 全面的に改訂

上乃木 燕二
クラシック音楽のブログを運営しています。後期ロマン派〜新ウィーン楽派がメイン。交響曲ネタが多目。オペラ・室内楽を扱うべく奮闘中。元トロンボーン奏者。チェロやりたい。マーラーとテンシュテットが心の師匠。