マーラーの交響曲第1番の個人的名盤

その2はこちらから、その3はこちらからどうぞ。

マーラーの1番は今も尚一番好きなマーラーの音楽です。世間では”巨人”として親しまれる人気の高い曲でしょう。数あるクラシックの曲の中でも、私にとっては一二を争う大名曲です。小学生の頃からずっと。

喜怒哀楽に富み、それまでの交響曲の常識をことごとくぶち壊した1番(2番の方が劇的ですが)は、ヘヴィメタルやプログレを聴くことができる現代においてもエキセントリックであり、心を揺さぶられるものでもあります。

そんなマーラーの1番の個人的な名盤を年代順にご紹介します。


■ステレオ録音初期の貴重なマーラー

普通であればもちろんワルターから初めなければなりませんが、1番のステレオに限ってはボールトの方が少し古いです。テンシュテットが同じLPOで1番をEMIに残す時から約20年も前だと思うと、改めて感慨深い1枚です。

マーラーが流行り始めるのが1960年代後半。マーラー没後から半世紀、バーンスタインが話題になる時期に当たります。それよりも前の録音となるとワルターぐらいしかありません。つまり全然流行ってない時期の録音な訳です。

今風に言えば、例えばALI PROJECTが流行り始めたのは2000年代半ばだと思いますが、それ以前は”コッペリアの柩”以外そこまで売れなかったことに鑑みて、1990年代にアリプロのカバーアルバムや同人CDを出すみたいなものだと思って下さい。現在のマーラー受容からは想像つきませんが、過去の聴衆からすれば訳の分からない録音を世に解き放ったのです。

テンシュテットやバーンスタイン、他も含めて現在聴くことができるメジャーなマーラーに慣れている者からすれば、ボールトとLPOの演奏には初々しさを感じます。音質は1950年代とは思えないほど良好なため一層顕著です。

管楽器には、どうやって鳴らせば良いのか、本当にこんな事をしての良いのかといったやや遠慮気味な雰囲気を感じます。弦楽は懸命に弾いているのが良くわかりますし、パーカッションは管が弱い分余計に目立って聞こえます。

テンポは極めて快速です。手持ちのステレオの1番で50分を切っているのはこれだけです。バーンスタインのような粘り気は一切無く、淡々と進み、似たような趣で言えばブーレーズのマーラーに近いものがあります。かと言ってドライ過ぎる感じはありません。楽器から出てくる音を無理に絞るようなことはしていません。マーラーの音楽を一般受けさせるような、無難に聴こえるさせるような気配を感じます。訳の分からないマーラーの音楽を古典的な常識の範疇で捉えようとした形跡を確認できます。聴き応えは他と比べると流石に薄いですが、これはこれで交響曲として十分に聴けるものです。その徹底した無骨さがボールトらしさなのでしょう。

この後取り上げるワルターの1番は良くも悪くもワルターの色が強いです。それはワルターがマーラーの弟子であるからと言ってしばしば無条件に正当化され絶賛されますが、それはあくまでワルター自身の音楽であると認めて冷静に評価するべきです。もう一方の弟子だったクレンペラーは1番の録音を残していません。流行る前のマーラーを聴くにはもう第三者しかない状況で、ステレオ録音となると私はこのボールトの1枚しか知りません。その上ボールトの1枚はワルターと対照的に客観的な演奏と来たものです。今を生きる我々にとっては、ワルターの演奏をあまりに神聖化し過ぎるのは如何なものかというメッセージなような気がしてなりません。


■マーラーの古典的名盤

マラ1のレコードを扱う上で絶対に無視できないワルター盤ですが、単刀直入に好きか嫌いかで言えば嫌いの分類に入ります。しかし良さがあるのも分かるのです。

マーラーの弟子だったワルターの解釈は独特で、バーンスタインでも無ければ他にも類似する録音は無いと思います。1楽章と2楽章の、まるで賛歌を歌っているかのような生に溢れた華やかさとそれを操るワルターの手腕には頭が下がります。

しかし正直に言ってしまえば、4楽章だけはいつ聴いても気持ちよく聴くことができないのです。バーンスタインが絶賛しても私は絶賛できません。師匠マーラーへの愛情と言ってしまえば聴こえは宜しいですが、現代のマーラーに慣れきってしまった私にとっては音楽の流れが不自然で、歌わせているのかただ遅らせているだけなのか判断に付き難いシーンが多いです。これがテンポ変化だというのはフルトヴェングラー信者でしょうが、私のような(どちらかと言えば)トスカニーニ信者からすればただの不自然でしかありません。

更には他のマーラー怪物達の録音を聴き入っている以上、この演奏には地獄から天国に至る過程の要素が薄味に過ぎると感じられてなりません。確かに1番は若々しく希望に満ち溢れた曲であると言えなくはないですが、幾多のマーラー録音がある今において、4楽章のカタルシスが無い、終始楽観的でドラマの無い1番は退屈だと言わざるを得ません。これなら客観的な交響曲として首尾一貫しているボールト盤の方が私は好きです。

かと言って逆に、3楽章と4楽章の趣のみを強調した、4楽章の大迫力によってゴリ押しで突破するだけの子供騙しの1番に対しては(アマチュア以外となると色眼鏡で見なければそんな1番中々ありませんが)、ワルターの爪の垢を煎じて飲めと言いたくなります。こういった1番があってそれを聴いてしまったとなると、懐古趣味に走りたくなる気持ちも確かに分かります。そんなものはマーラーではない!と。”本当のマーラー”とは何かについては別の記事で考察します。ワルター盤は1楽章と2楽章は大好きだけど、4楽章は好きになれない不思議な1枚だと結論付けておきます。


■バーンスタインの旧盤

ここからはバーンスタインの一時代がやってきます。私はコンセルトヘボウとの新盤よりNYPとの旧盤の方が好きです。理由は巷でも良く言われているとおり、新盤の粘っこさと1番の曲想とのギャップに不快感を感じるからです。

旧盤の方は良い意味でマーラーらしくなく、速いテンポと溌剌としたNYPのサウンドと相まって非常に痛快です。ワルターのマーラーが本当に好きなのであれば、盛り上げ方や細かい歌い方は別としても、バーンスタインなら旧盤より新盤を好むと思います。


■NDRの限界まで突き詰めたマーラー

私のライブラリにあるテンシュテットの1番は以下の通りです。

  • 1977年 NDRSO Live Recording MEMORIES盤 (これ)
  • 1977年 LPO Recording EMI盤
  • 1985年 LPO Live Recording LPO自主制作盤
  • 1990年 LPO Live Recording BBC盤
  • 1991年 CSO Live Recording EMI盤

どれも割りと好きですが、一番を選ぶとすればNDRとの1枚になります。現在一番好きなマラ1でもあります。録音状態はBBC盤に次いで悪いと思いますが、それを補って余りある録音だと思います。

その理由の1つ目はNDRSOのレベルの高さと、その高さ故に指揮者の要望に応えようとして必死に藻掻く様が作り出す音楽です。LPOも1990年の録音はかなり健闘しているとは思いますが弦楽のフレージングと音量との余裕の無さがひしひしと伝わってきます。それはそれで面白いのですが、一度NDRSOの弦楽を聴くとこっちの方が正気を保ちつつヒィヒィ言っている様が聴けて面白いのです。「弾いてやってますがこれで何か文句あります?」とでも言うかのような挑戦的な弦楽にはグッと来るものがあります。この後ヴァントに付いていけるのにも頷けます。管打楽器も割りと正確にテンポについてくるものの「もうこれ以上は勘弁してくれ!」と言っているかのような悲痛な音色が病みつきになります。本当の絶望は3年後のマラ2であると当時の彼らは知るはずが無い訳です。我ながら頭がおかしいと思います。

一方、最晩年のCSOはテンポ的に弦楽は余裕のようで、尚且つ最強の管楽器軍団が「ヤバい指揮者が来よったけど、こんなもんでええか?」とでも言うような2割ぐらいの余裕さ(に思えるもの)を保って爆演するので、オケは上手いものの緊張感や切迫感に欠ける気がするのです。実はまだまだイケるんと違う?と思わず言いたくなります。3楽章までならそれでもいいのですが、4楽章はやはり狂気染みた弦楽とキリキリと叫ぶ管楽器が聴きたくなります。やはり我ながら頭がおかしいと思います。本当にグチャグチャで混沌とした4楽章なら1990年のBBC盤一択ですが、ここまでいくと何がなんだか分からなくなるのでNDRの方が好きです。テンシュテットが本当に実現したかったマーラーの1番は、NDRでやったものが一番近かったのではないかと思ってしまうのです。

2つ目は旋律の歌い方とテンポの扱い方。1楽章と2楽章の歌い方は至って自然でスッと頭に入ってきます。誤解されがちですが形振り構わず爆演する訳では決してありません。3楽章の哀愁を帯びたコントラバスも◎。4楽章は過度に減速・加速することもなく、バーンスタインに比べれば実に安定したテンポ管理だと思います。爆演といってもバーンスタインのような粘り気は薄く、所々でターンを効かせるものの、進行に差し障りがあるような落とし方はしないのです。CSO盤のようにゆったりもしていなければ、LPO自主制作盤のような少しバーンスタイン的な歌い方もなく、NDRSOとの1枚は実に素直に聴けるのです。

確かに思ってみればワルターの歌の情緒とは無縁な気がしなくもないです。1楽章と2楽章はもっと明るくて然るべきだとも思いますが、あまりにも楽観的過ぎるのは私の好みではありません。無理に歌わせようとしなくても、曲そのものが持つメロディラインだけでも十分に情緒的だと思います。シューベルトの交響曲なんかも無理に歌わせようとするとかえって趣を損なうものです。


■”まともな方”のケーゲルのセッション録音

私のライブラリにあるケーゲルのマラ1は以下の通りです。

  • 1978年 LRSO Live Recording WEITBLICK盤
  • 1979年 DPO Recording Berlin Classics盤 (これ)
  • 1981年 DPO Live Recording WEITBLICK盤

この中で唯一まともな精神で聴くことができるのが、DPOとのセッション録音のものです。楽観的な1番は如何なものかと言いましたが、ケーゲルのライブ録音ほど悲観的なものはかえって聴きたくありません。

ケーゲルのライブ録音は3,4楽章だけに留まらず全てが暗く悲痛的なのです。弦の音色も管の音色も。さながらムラヴィンスキーやスヴェトラーノフ時代のロシアオケを聴いているような、冷たく固い音色が終始支配します。

更にはお世辞にもオケが上手いとは言えません。ミスが嫌でも目立ちます。N響嫌いの私でもこれならN響の方がましです。現代音楽も得意としたケーゲルに特有な、急なテンポ変化と超スピードがこれに合わさるともう聴いていられません。

反面セッション録音の方はオケのミスも少なく、悲観的な音色もライブ音源ほどではなく、ほどほどに聴くことができます。ライブ録音では嫌味でしかなかったケーゲルの解釈も、冷静に捉えることができ少し控えめなのもあって聴きやすいです。普通のものに飽きていてヒステリックな1番が好きなら是非ライブ盤を、と言えますが私にはセッション盤で十分です。

尚、私がケーゲルの録音を聴いてみようと思ったのは、あの賛否両論で悪名高い新書“カラヤンがクラシックを殺した”を読んだ事がきっかけだった気がします。ケーゲルのライブ録音は、確かにこういった頭のおかしい新書著者を生み出しかねない危険な音楽だと思います。毒されないように気を付けねばなりません。私はもう手遅れかもしれませんが。


■コンドラシン最後のライブ録音

これはググれば分かりますが、コンドラシンが亡くなる直前に最後に残したライブ音源です。テンシュテットが演奏会をキャンセルしたため、急遽コンドラシンが代役となりリハ無だったライブだそうです。

↑のテンシュテット盤と比べてしまうと粗さが目立ちます。ですがNDRが好きなら聴いて損はないと思います。コンドラシンの指示が良い意味で効いていないのためか、本来のNDRらしい音色でやや普通の1番を聴くことができます。

私はNDRが好きでテンシュテット盤との比較のために聴きますが、これ本来の良さというのは正直薄いと思います。ですがコンドラシンがしょぼいのではありません。テンシュテットがあまりに凄まじ過ぎるのです。


■アバド/シカゴ響の無難な1番

私が所持しているシカゴ響の1番には、アバド、ショルティ、テンシュテット、ブーレーズ、ハイティンクのものがあります。

ハイティンクが凄いのはどのオケを振ってもハイティンクになることです。さながらカラヤンのように。コンセルトヘボウで振ってもシカゴ響で振ってもあまり変化を感じさせないのは凄いと思います。オケの方を自分の音楽に持っていく天才だと思います。ハイティンクの明瞭で物静かなマーラーは、バーンスタインのゴテゴテしたマーラーを聴いた後にはいいのかもしれませんが、普段聴くには物足りなく思ってしまいます。わざわざマーラーでやらなくていいのに、と。近い趣のシャイーの録音の方がまだ分かります。

ブーレーズは1番と6番に限っては割りと好みですが、マーラーに対して非感傷的過ぎる、現代音楽的過ぎる解釈に付いていけません。ロットの交響曲さながらにトライアングルを鳴らしまくるのもリスペクトを通り越して聴くに耐えません。面白くはあるのですが。特に5番なんかはサヨナラバイバイです。斬新であることに違いないでしょうが、マーラーであってマーラーでないような不思議な気分がします。大抵は一度聴いて「へぇー。そっか。」だけで終わります。

ショルティは今となってはもう軍隊の音楽に聴こえてなりません。徹底的に統制されたオーケストラから出て来る音は半ば機械的であると言っても良いと思います。わかりやすい1番や5番ならまだましですがそれ以外となると、てんで駄目です。マーラーの音楽のように聴こえなくなります。チャイコフスキーの4番なんかにはピッタリとハマります。ここではCSOをバキバキに鍛えた事実に感謝するのみです。

テンシュテットについては上述しましたが、彼のマーラーにしてはCSOでは些か健康的過ぎるのでNDRの方が好きです。決して嫌いでは無いですしDVD版を見ると尚更感動するのですが、それは別の趣です。

そんな大御所の中でのアバドは、ブーレーズやハイティンクよりは人間味と個性はあるけれど、ショルティやテンシュテットほどインパクトのある録音でもない、なんとも中途半端な感じが否めない録音ではあります。しかしこれが何とも都合の良い演奏でもあるのです。

第一に、自分以外の初心者やクラシックに明るくない人に薦める上でこれ以上に無難なものが無いからです。聴きどころの分かりやすいアバドのマーラーであってこそです。金管が極端にNGならBPO盤がありますし。でもできれば良くも悪くもカラヤンの影響が残るBPOよりも、明るく活気に満ちたCSOの方を薦めたいです。

第二に、ショルティの鍛えたCSOを十二分に使えているとは言えないまでも、アバドなりの表現の土壌にて十分に実力を発揮しており、アクが無く最も聴きやすい録音の1つだからです。1,2楽章の明るさと、3楽章の暗さと狂気、4楽章の程々の落差から天国に至るまでの開放感を共存させており、普通はどこかに焦点が行きがちになって1度に味わうことが中々できないものです。中途半端は中途半端なりにいい面があるということです。


■独自解釈が光るも無難にまとめているMTTの1番

ここからはバーンスタイン/テンシュテットが没した後の現代編になります。
MTTの1番の趣にはアバドやバーンスタインの旧盤に近いものがありますが、手兵サン・フランシスコ響を自在に操っているため表現の幅がより広く、ダイナミクスも広いためより聴き応えのある1枚になっています。かと言って粘り気とは到底無縁の分かりやすい1番です。

サン・フランシスコ響の自主制作盤のため手に入り辛いのが唯一の難点です。クリアな音質で無難な1番が聴けるのは素直にありがたいことです。2000年代では最高のマーラーだと思います。


■ヤンソンス/RCOの全盛期(??)

このヤンソンス/コンセルトヘボウの1番を聴いたときには、勝手にヤンソンスに大して多大な期待をもったものです。バイエルン放送響とのブラームス全集を聴いてみても、やはり彼は彼なりの音楽に自信と誇りを持っていると思うのです。

しかしこれ以外のコンセルトヘボウのライブ音源は、正直無難過ぎるというか面白みに欠けると私は思ってしまいます。特にマーラーの5番なんかは、いったいどうしてしまったのかとさえ思いました。飽きてしまったのでしょうか。

ヤンソンスはサンクトペテルブルクフィルとのラフマニノフの2番、オスロフィルとのワーグナー作品集なんかを聴いて、最近の指揮者にしては面白い指揮者だな、と以前から注目していただけに、最近のコンセルトヘボウとの録音には心底ガッカリしています。

そんなことを忘れさせてくれるのが2006年のマーラー1番です。情熱に溢れ、やや無難ではあるもののコンセルトヘボウをきちんとドライブしており、ハイティンクでは考えられなかった主観的で情緒のある1番だからです。

これからはヤンソンスのマーラーの時代が来るかもしれない、まともなマーラーを生で聴きに行けるかもしれない、と思ったのはどうやら早計だったようです。しかし心の片隅ではまだ諦めていません。ラトルやネルソンスなんて捻り潰す勢いで頑張って欲しいと思っています。


■まだまだ無難だが将来に期待できる1番

残るマーラー指揮者(だと勝手に思っている)は最後になりました。マルクス・シュテンツです。微妙にマイナーなケルン・ギュルツェニヒ管を指揮したマラ1は、十分にマーラーらしいマーラーと言えるでしょう。

正直これといって特に褒めるべき点が見当たらないのですが、逆にダメ出しすることもない無難中の無難な演奏です。ヴァント時代の統制感は良い意味で無いので、ヴァントに苦手だった人もこれなら聴けるかもしれません。

Wikipediaの日本語ページが2017/10/12現在で存在しない、少し知名度に劣る指揮者かもしれませんが陰ながら応援している内の一人です。オランダ放送フィルでも頑張って欲しいです。


その2はこちらから、その3はこちらからどうぞ。


// 編集履歴
2017年10月12日 初稿投稿
2017年10月14日 話題が逸れた内容を別記事へ分離
2017年12月19日 別記事へのリンクを追加

上乃木 燕二
クラシック音楽のブログを運営しています。後期ロマン派〜新ウィーン楽派がメイン。交響曲ネタが多目。オペラ・室内楽を扱うべく奮闘中。元トロンボーン奏者。チェロやりたい。マーラーとテンシュテットが心の師匠。