日本におけるブルックナーの愉しみ方

ブルックナーの個人的名盤紹介においては、私の好き・嫌いによる偏った趣向があまりに強すぎであると感じざるを得ません。個人的なものなので仕方がないとは思いますが、これらの記事だけではブルックナーの音楽への理解に納得が行かない印象がある、伝わりきらない印象があるように思います。

なのでここでは、私の趣向は極力控えるようにして、なるべく客観的にブルックナーの交響曲について述べたいと思います。結局は個人的な感想の域を出ないのでしょうが、このブログに訪れることで更に幅広い感性や姿勢を持って帰って頂くためには、これしか手段が無いように思うのです。


■日本人金管奏者のフィジカリティ

こんな駄文を読むよりもまずは、マタチッチ/N響のブルックナー8番(75年の録音よりも84年の録音の方が酷い)と、スヴェトラーノフ/N響のチャイコフスキー5番・スラヴ行進曲の録音を聴いて頂きたい。百聞は一見に如かずとは真逆の”百見は一聴に如かず”です。私が言わんとする事が理解できるはずです。ブルックナーについて語る上でチャイコフスキーを持ち出す愚行にはどうかご容赦頂きたい。

聴いて頂ければ自明なことと思われますが、日本における天下のN響でさえ、世界レベルのマエストロの音楽に奏者が付いて行けていないのです。とりわけ金管の息切れ、息の量が足りないのを息のスピードで無理矢理誤魔化した結果として出てきたフォルテッシモには、酷いものがあるように感じられるでしょう。これがチャイコフスキーならしょうがないな、とも思えますがブルックナーでは致命的です。パイプオルガンの響きとは程遠い、耳をつんざくような、なんと脆弱な響きなのでしょう。私がN響ではブルックナーを絶対に聴かない理由はここにあります。

金管奏者の息の量(肺活量+腹に息を溜められる量)についてはとやかく言われますが、少なくとも私は訓練でどうにかなるものではない、先天的なフィジカリティがものを言うと思っています。日本の学校における吹奏楽文化に染まった人間からは”走り込みが足りない!”なんて言われそうですが、そんなアホなことはありません。確かにブルックナーを全曲吹き切るには体力が必要なため、ある意味で的を得ているとは思います。しかし走り込みで賄える体力だけではどうしようもない世界なのです。肺で扱える息の量と腹で扱える息の量では全然違います。これならまだ、大いに酒を飲み、大いにドカ食いをすることで、何とか胃の容量を増やそうとする方が科学的だと思います。オーケストラの金管奏者が大酒飲み・大食漢なのはここら辺りの事情がありそうです。

欧米人と比べて息の絶対量が足りなければ、上で挙げたような演奏になる方がむしろ自然だと思います。日本でブルックナーの音楽を聴きたいと考える聴衆は、この客観的な事実を冷静に受け止めるべきです。もしも日本でチェリビダッケのブルックナーのようなブルックナーを聴きたければ、スコアでの指定から数倍以上の金管奏者が必要になるでしょう。トロンボーンなんて6人以上は確実に必要になってきます。そんなことをする日本のオーケストラはありません。諦めたほうが潔いと思います。アマオケや臨時オケで奇跡でも起こらない限り、日本のオーケストラから聴こえてくるブルックナーは以下の2種類にしかなりません。

  1. 世界クラスの音楽的スケール感を追い求めて、響きが細く硬直化した、聴くに堪えない自己満足的ブルックナー
  2. 自分たちの技量を客観的に把握した、小スケールながらも拘りのある現実的ブルックナー

日本の聴衆に渋いブルックナーが好きな方が多い(多かった)のは、2.のようなブルックナーを良く理解しているからだと言えるでしょう。N響以外の日本オケのコンサートに足繁く通う方なら、わざわざ言われるまでもないとお思いになられることでしょう。


■朝比奈氏・スクロヴァチェフスキのブルックナー

ここでもまずは、朝比奈/都響のブルックナー8番と、スクロヴァチェフスキ/ザールブリュッケン放送響のブルックナー8番の録音を聴いて頂きたい。朝比奈氏のブルックナーは大阪フィルの録音でも良いでしょう。両者には版の違い・細かい解釈の違いはあるにせよ、共通する部分が見えてくると思います。

両者に共通するのは、大変地味であり縦の線がユルユルであることです。カラヤンのブルックナーを聴いていれば更に良く分かることでしょう。都響の弦楽はお世辞にもブルックナーを賢明に弾いているとはとても思えませんし、金管はN響に比べて随分と頑張ってはいますが、朝比奈氏の緩いタクトのせいか音の出だしが曖昧な場面が多いです。反面ザールブリュッケン放送響は弦楽こそ張り切っている一方、縦の線は朝比奈氏以上にユルユルな場面が多いです。金管は両者とも五十歩百歩といった感じです。あのガタイが良く膨よかなドイツ人でさえ、ザールブリュッケンという田舎のオケがブルックナーをやれば所詮この程度なのです。目が覚めると思います。

一昔前は、朝比奈氏のブルックナーが日本のクラシックファンの間で大いに話題になったものでした。スクロヴァチェフスキのブルックナーのような、ドイツやウィーンの田舎オケから放たれる渋いブルックナーを日本の聴衆に届けてくれたからだと思っています。単に朝比奈氏が日本人でありブルックナー指揮者だったからという訳では無いと思います。朝比奈氏のブルックナーはやはりどうしてもブルックナーらしいブルックナーだと今でも思います。必要以上に持ち上げるのも気持ちが悪いのですが。

こういった渋いブルックナーを好む聴衆が今も残ってはいても、新しくブルックナーを聴く人間がこれらを理解できる・受容できると簡単には思えません。あまりに楽観的過ぎると思います。リヒャルト・シュトラウスやマーラーの音楽に見られるような派手さ・豪快さを求めるのとは全く違う、ブルックナーならではの渋い愉しみ方ができることを、一人でも多くの若者には気が付いて欲しいと思います。これは言葉ではとても表すことが出来ない、聴かないと分からない趣だと思います。単なる懐古趣味以上の趣が、朝比奈氏やスクロヴァチェフスキのブルックナーには今も存在していると思います。


■テンシュテット・カラヤン・ショルティのブルックナー

一方でブルックナーであれば何でも渋ければ良い、というのは実に偏った見方と愉しみ方であると思います。そんな事を言う私は渋いブルックナーが大好物なのですが、世の中には渋さの無いブルックナーも山のようにあります。とりわけ顕著なブルックナーはテンシュテット/ベルリンフィルのブルックナー8番ライブ盤カラヤンのブルックナーでしょう。

テンシュテットのライブ盤は最もエキサイティングで激しいブルックナーだと思います。同じコンビによるブルックナー4番のライブ盤も、同様に凄まじい推進力と迫力があります。ロンドンフィルとのライブ盤のブル4には2種類(TDK盤84年東京公演LPO自主制作盤89年ロンドン公演)があるようです。私は聴いたことがありませんが大体予想がつきます。EMIから出ていたテンシュテット/ベルリンフィルのブルックナー4番テンシュテット/ロンドンフィルのブルックナー8番は私も良く聴きます。EMI盤は両方とも適度にテンシュテットらしさが残る、程々に抑えられたセッション録音だからです。

これらの録音に対して、私にはどうしてもブルックナーらしくないと感じられてなりませんが、派手で豪快なブルックナーというのもまた、ブルックナーのスコアから出てくるもう1つのブルックナーだと思います。ショルティ/シカゴ響のブルックナーにも凄まじいものがあります。綺麗で分かりやすいブルックナーが存在することも事実なのです。わざわざブルックナーで聴くのもどうかと思いますが、クラシック初心者にはこの方が刺激的で良いのかもしれません。


■レコード批評とブルックナー

かつてのレコード鑑賞におけるブルックナーの録音論評は酷いものでした。レコード鑑賞からブルックナーの世界に入ったクラシックファンには、今も尚フルトヴェングラー、シューリヒト、クナッパーツブッシュと言った歴史的名盤を有難がる人が多いように見受けられます。彼らの思い出にケチを付けたくは無いのですが、新しくブルックナーを聴く人達が今時これらを有難がることはまず無いと思います。

これらの歴史的名盤を鑑賞する時に感じる第一印象を一言で言ってしまえば、化学調味料にドップリ浸かったコーラを飲むような違和感です。確かに凄い演奏だけれどもどこかおかしい。一度でも生のブルックナーを聴いたことがあれば尚更、これらを名盤として第一に推すのは明らかにおかしいと思うはずです。モノラル盤ならまだしも、弄りに弄りまくったステレオ盤は、もはやアナログの良さが全く失われていると言っても良いと思います。ホールに響く感じが全くしないのです。ドーピングで反則になるオリンピック選手を見ているかのようです。私はこれらだけを聴いて、これらがブルックナーの音楽の常識であり定番であるとは決して思ってほしくありません。

チェリビダッケのブルックナーはまだ理解ができる一方、そのあまりにも長い演奏時間と鈍重なテンポを伴う音楽を聴き通すのは、新参者にとって中々にハードルが高いと言わざるを得ません。かと言って逆にチェリビダッケしか聴かないと言うのも、ブルックナー・ファンとしては極めて異常だと言わざるを得ません。

他人の意見なんて無視してしまい、もっと自由奔放に音楽を聴いてほしいと思います。確かにブルックナーの音楽は非常に長く、退屈な録音が多いことも事実です。時間を無駄にしたくないので、他人のお墨付きがどうしても欲しくなる気持ちは分かります。けれどもどの道、ブルックナーを聴くには忍耐と根性が必要です。その壁を主体的に乗り越えないことには、何時まで経ってもブルックナーの音楽を真に鑑賞しているとは言えないと思います。


■総括:日本におけるブルックナーの愉しみ方

– 1. レコード鑑賞

過去の名盤に囚われた御老体方に対して言うことは何もありません。しかしこれから新しくブルックナーを聴く人達には、私や彼らの言う”名盤”なんてものは一切信じず、自分の力と耳でブルックナーを聴いて欲しいと思います。スコアにも必ず目を通すべきです。幸いにも朝比奈氏のブルックナー・ブームがあったためか、中古CD市場にもたくさんのブルックナーの録音があります。一方で今時らしくネットで動画を漁るのも良し、NML(Naxos Music Library)で探すのも良し、Digital Concert Hallで聴くのも良し、何でも結構です。

ブルックナーと言えばフルトヴェングラー、ブルックナーと言えばシューリヒト、ブルックナーと言えばクナッパーツブッシュ、ブルックナーと言えばチェリビダッケ、ブルックナーと言えば朝比奈隆という一昔前の常識をブチ壊せるのは、今を生きる若者達だけです。わざわざ自分たちの感性を老人達に合わせてやるような慈善事業は必要ありません。

– 2. コンサート鑑賞

私が一番言いたいのは、レコード鑑賞で培った常識(?)を生のコンサートにまで持ち込まないで欲しい、ということです。とりわけ日本のオーケストラから聴こえてくるブルックナーには妥協が必要です。これを理解しているかどうかで大きく違ってきます。そういうことを平気で仕出かす輩の多くは、精神性・ドイツらしさ・荘厳さといった、一昔前のレコード批評界隈で流行った、良くわからない抽象的な観念でもって折角の生演奏を蹴落とそうとします。鶏肉を食べて牛肉のような味わいが薄いと言うような、見当違いの論評や感想がまかり通っています。

これからの時代の流れと共にそういった老害は減る一方だとは思いますが、その他大勢のサイレント・マジョリティであるクラシックファンが騙されないようにしなければなりません。同調でもしたら目も当てられません。如何に偉そうに講釈をたれていても、結局そいつが一番音楽を良くわかっていないということも、往々にしてあると思います。オーケストラの奏者側に立てば、楽器を満足に弾けない人間が偉そうにしたところで何も思うことはありません。分かってないなぁ、の一言でアッサリと断罪されてしまいます。

一方でコンサートにはコンサートにしか無い魅力があります。ブルックナーの音楽こそ生の聴体験を通して理解して欲しいと思います。散々こき下ろした日本のブルックナーでもその良さは垣間見れると思います。それ以上のブルックナーを生で聴きたければ、ベルリン、ドレスデン、ミュンヘン、ウィーン、ニューヨーク、シカゴまで足を運ぶしか無いと思います。来日公演を待つのも良いですが、やはり一度は本場のオケを本場の土地で聴きたくなるものです。定番から少し外したシュターツカペレ・ベルリン、ウィーン響、リンツ・ブルックナー管といった渋いオーケストラが、ドイツ・オーストリアにはたくさんあります。これらのオーケストラによるブルックナーを聴けば、日本におけるブルックナーの(過去の)常識や批評が如何に見当違いであるのか、身をもって知ることができるでしょう。

私にはもちろん好みがあるので、それら全てが好きであると言えば嘘になります。しかしながら”名盤”が独り歩きしている気配を感じる日本のブルックナー受容において、一言申さない訳にはいかないと思い立ったのです。これからの新しいクラシックファンには、是非とも自由に大らかな感性でもって、ブルックナーの音楽を愉しんで頂ければと願うに尽きません。

上乃木 燕二
クラシック音楽のブログを運営しています。後期ロマン派〜新ウィーン楽派がメイン。交響曲ネタが多目。オペラ・室内楽を扱うべく奮闘中。元トロンボーン奏者。チェロやりたい。マーラーとテンシュテットが心の師匠。