マーラーの交響曲第1番の個人的名盤:その3

その1はこちらから、その2はこちらからどうぞ。

その3にまで突入してしまいました。これで計32枚ですか。まだまだですね。簡単に手に入るマラ1のレコードはそこそこカバーできていると思います。無いのはインバルやジンマンのマーラーぐらいでしょうか。コンドラシンの交響曲集盤もありませんね。いやはや、やっぱりまだまだです。ストックが十分に溜まったらまたいつか続きを書きたいと思います。


■シャイー/コンセルトヘボウ

ハイティンク/コンセルトヘボウ盤では少し物足りないと感じるなら、シャイー盤を聴いてみて損は無いと思います。ポスト・バーンスタイン/テンシュテット時代のマーラーらしい、理知的でありながら聴き所に困らないマラ1だと思うからです。

シャイーのマーラーはとにかく美しいです。とは言ってもカラヤンのような美しさではなく、デュトワ/モントリオール響による音楽の趣に近い、素朴で繊細な美しさがあります。弦楽と木管の音色には艶があり金管も程良く響き渡ります。そのバランス感覚がシャイーの一番の長所だと思います。

マーラーでは1番よりも3,4番の方に合いそうなシャイーの解釈ですが、このマラ1も十分に聴けるものです。58分と長めの演奏ですが、マゼールやシノーポリほど癖を感じさせません。ついでに同コンビによるマラ8の方も是非どうぞ。マラ8もそう言った意味で非常に美しい音楽になっているように感じるのです。


■ノイマン/チェコフィル(92年盤)

ノイマンのマーラーは”自然そのもの”です。マーラーの音楽らしい主観的な感情の暴露をほとんど感じさせません。小奇麗なリヒャルト・シュトラウスの音楽を聴いているかのような気分にさせます。これはこれで心地が良いのです。

雄大でありつつオーケストラから放たれる音色は彩り鮮やかであり、まさにチェコフィルがマーラーを演奏したらこんな感じになるだろうな、というイメージがそのまま聴こえてくるマラ1だと思います。私がノイマン/チェコフィルのドヴォルザークが好きだからそう感じるだけなのかもしれませんけど。とりわけ1楽章は聴きものです。ここだけは往年のワルター盤にも引けを取らないと言っても過言ではないように思います。


■ノイマン/チェコフィル(79年盤)

ノイマンの解釈は92年盤とそれほど変わっているように聴こえません。録音の良さは流石に92年盤の方が圧倒的に上なので、両方から選択できる状況なのであれば、79年盤の方をわざわざ採る根拠は薄いと思います。もっと地味なチェコフィルらしいマーラーが好きであったり、ノイマンの音楽が好きであるのならこちらも良いマラ1だと思います。


■ブーレーズ/シカゴ響

ブーレーズのマーラーにしては随分派手な印象を感じるマラ1です。オケがシカゴ響だからでしょう。迫力という観点ではハイティンク/シカゴ響番と五十歩百歩と言った所ですが、ブーレーズ盤にはハイティンク以上に人間臭い表現がありません。余計な感情や過去のマーラー録音から齎されるイメージなんてものは頭の中から取っ払って、ただひたすらにスコアだけと向き合い、周到ににらめっこした結果であるかのような、極めて知的なマーラーだと思います。

ブーレーズのスコア解釈には現代音楽作曲家・指揮者らしい独特の臭さがあります。バストロンボーンといった低音部を容赦無く表出させ、装飾的なトリルやパーカッションを遠慮無しに鳴り散らかせるからです。ハンス・ロットの交響曲第1番を聴いた後からすると、ブーレーズのマラ1にはしっくりくるものを感じます。とにかくトライアングルが五月蝿いからです。面白いマラ1ですが割りと上級者向けだと思います。これを初めて聴いてもその良さは分かり辛いと思います。スコアのリファレンスには良いと思います。中々読み返す気にならないんですけどね、マラ1のスコアは。


■ギーレン/SWR響

ブーレーズのマーラーと同様に現代音楽的なマラ1だと思うのがギーレン盤です。こちらも知的でシャキッとしたマラ1だと思います。無個性であるとは決して言えないとは思うのですが、やはりマーラーの音楽に対する没入度が薄いように感じられてなりません。

かと言ってブーレーズほどの無味乾燥さはありません。極めて理性的で交響曲としての体を保っているという共通点はありますが、こちらの方がもっと分かりやすいと思います。色付けも独特であり明瞭です。今時のマーラー・ファンはこういうマラ1の方が好きそうです。実にクールな印象を受けるマーラーだからです。


■ゲルギエフ/ロンドン響

ショルティ時代に苦汁を舐め尽くしたロンドン響が、新しいマエストロであるゲルギエフと組んでリベンジマッチを図っているかのようなマラ1が、このゲルギエフ盤だと思います。

ゲルギエフによるマーラーの解釈には確かに面白いものがあるのですが、結局ロンドン響は相変わらずロンドン響だと思ってしまいます。マーラーをやるにはやっぱり非力なオケである感じが否めません。ゲルギエフのマーラーを聴くことができるという客観的な価値はありますが、この演奏自体からはそれほど惹きつけられるものを私は感じません。ラトルで変わってくれるのでしょうか。期待はあまりしないでおきます。


■フェドセーエフ/チャイコフスキー・モスクワ放送響

ロシアのオケとロシアのマエストロによるマーラーなのに、ロシア臭さを感じさせない不思議なマラ1だと思います。とは言ってもこれは2001年の録音なので、流石にムラヴィンスキーやスヴェトラーノフ時代のようなキンキンに尖った演奏を期待する方が見当違いなのです。

往年のロシアらしさという偏見を除けば、近年のマーラーにしては個性的なマラ1だと思います。近年のロシアらしさと言うべきなのか、フェドセーエフらしさと言うべきなのか判断が付きませんが、適度にハキハキとして元気なマーラーだと思います。マラ1にとってはピッタリだと思います。私はフェドセーエフの解釈が好かんのであまり聴きません。

尚、カップリングされているワーグナーの”トリスタンとイゾルデ”第1幕への前奏曲はある意味で凄いです。ドイツ臭さが微塵も無いからです。超斬新な解釈だと思います。私はカルチャーショックを受けました。開始10秒で聴きたくなくなったワーグナーはこれが初めてです。世界は広いですなぁ。


■ジョルダン/スイス・ロマンド響

ショルティ/ロンドン響盤ほど悪くは無いのですが、どうしても中途半端な印象が拭えないのがジョルダン盤です。わざわざこのジョルダン盤を聴く理由が見当たりません。良くも悪くも中途半端なのです。ジョルダンの解釈もオケの演奏も。上手いアマオケによるマーラーを聴いているような気分になります。我ながら実に贅沢で傲慢な感想だと思います。


■ラトル/バーミンガム市響

ラトル盤の価値は”花の章”が付いている事実です。それもマラ1のトラックとは独立しています、一番最初のトラックに”花の章”を持ってきているあたりにラトル流の拘りを感じさせます。この録音はハンブルク稿ではない間違いなく交響曲第1番なのだ、”花の章”は聴いて欲しいけどあくまで独立物なのだ、とでも言いたいのでしょう。

肝心のマラ1の方は、若かりし頃のラトルの奇才ぶりが実に良く発揮された録音だと思います。これまた凝りに凝ったマラ1です。バーンスタインとは向きの違うベクトルを持ったマーラーであると言えるでしょう。好きな人は好きそうです。これが初めて聴くマーラーであったなら、ラトルのマーラーに没頭できるだけの個性があると思います。これが何とも言葉では表せないのです。私が無能であることを良く分からせてくれる1枚です。


■小澤/ボストン響

小澤盤も”花の章”が付いていますが、こちらは1楽章と2楽章の間に挟まれています。どちらかと言えば交響詩”巨人”(ハンブルク稿)に寄せた形のマラ1だと思われます。これが77年の演奏であることには驚くばかりです。花の章のスコアが見つかってからそこまで時間が経っていないからです。小澤氏のマーラーは、近年の冴えない指揮者が個性を出すために取り敢えず手を出したかのような軽薄なマーラーではないのです。小澤氏の熱心な研究に基づく立派なマラ1です。ハンブルク稿に寄せていると見做せば地味めなマラ1であることも自然であるように思います。しかし実際には、花の章だけ後撮りの録音のため、それは後付けの結果論でしか無いのですが。

小澤盤はノイマン盤と比べてしまうと派手ではありますが、これまた自然のような、歌を歌っているかのような情緒感のあるマラ1です。マラ1としては特殊な録音だとは思いますが、小澤氏らしさに浸って楽しく聴けるマラ1だと思います。少し凝ったマーラー・ファンなら、花の章を聴くならハンブルク稿以前のスコアで聴きたいと思うはずでしょうけど… そう言った意味では中途半端なマラ1です。今では交響詩”巨人”(ハンブルク稿)の録音を探すのも難しくなくなってしまったからです。


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上乃木 燕二
クラシック音楽のブログを運営しています。後期ロマン派〜新ウィーン楽派がメイン。交響曲ネタが多目。オペラ・室内楽を扱うべく奮闘中。元トロンボーン奏者。チェロやりたい。マーラーとテンシュテットが心の師匠。