マーラーの交響曲第1番に想うこと

“Who is John Galt?” / Atlas Shrugged / Ayn Rand

マーラーの交響曲第1番とは、“青春と若き悩みからの開放”をテーマにした抒情詩です。この曲は元々は交響詩として構想された音楽であるため、標題が取り去られた交響曲であっても十分過ぎる標題性を感じるのはおかしい事では無いと思います。

ここでは幾つかのテーマに分けて、マーラーの1番をどう見ているのかまとめておこうと思います。また、書き進める内にあまりにも長くなってしまったため、最初に見出しだけ貼っ付けておきます。

■”巨人(Titan)”という標題性
■巨人の正体その1:”巨人はマーラー本人である”説
 ●1楽章:”マーラーの目覚め、悦び、悩み”
 ●2楽章:”マーラーの友情”
 ●3楽章:”マーラーの自虐”
 ●4楽章:”マーラーの愛の勝利”
 ●総括 :”マーラーの1番は彼自身の人間喜劇”である
■巨人の正体その2:”巨人は友人ハンス・ロットである”説


■”巨人(Titan)”という標題性

マーラーの1番は今も尚、分かり易い”巨人”というタイトルと共にCDやコンサートが宣伝され、”巨人”をニックネームとして認知しているクラシックファンも多いと思います。そんな中、マーラーやこの曲について良く知らない人にとって、“巨人って誰なんだ?”といった疑問は湧いて来ても当然だと思います。

結論から言ってしまえば“巨人は誰でもない”というのが客観的な答えです。特定の誰かを示す明確な根拠が存在しない上、作曲者であるマーラー本人がこの標題を後付であると認め取り去ってしまったからです。更に、彼の愛読書だったとされるジャン・ポールの小説”巨人”の題名から採られたとするのが一般的です。従って、“巨人”が誰かなんて今更考えること自体がナンセンスなのです。意味が無いのです。

とは言えども、ある程度マーラーの音楽や彼の生涯について知っていく内に、“こいつこそ巨人なのでは?”と思えてしょうがない候補が出てきてしまうのです。それが如何にナンセンスな思いつきであるのか頭では理解していても、私にはどうしても思考を巡らさざるを得ないのです。我ながら呆れてしまいます。

そんな呆れて物も言えないような思索の結果を記しておこうと思います。ブログだから書けることです。学術的な根拠は皆無なので、間違っても乱りに信じないようにして下さい。言うまでもありませんが。あくまでただのギャグであり創作話なのです。


■巨人の正体その1:”巨人はマーラー本人である”説

マーラーの交響曲とは彼の自伝でもあるのです。マーラーの曲における”人”とは私(マーラー本人)である場合が往々にしてあります。故にこの曲においても”巨人=マーラー”という単純な方程式がふと脳裏に浮かびます。楽曲構成の順に沿って詳しく見ていきます。


●1楽章:”マーラーの目覚め、悦び、悩み”

序奏部は木管のカッコウの鳴き声、ホルンの牧歌が響き渡る自然の情景です。ベートーヴェンの6番”田園”(これも2楽章終結部でカッコウが鳴く曲)を極限まで主観的に、ロマンティックに発展させた音楽なのです。マーラーは15歳になってウィーンに出るまでの間、現在のチェコ・ボヘミアの地で生まれ育ちました。その少年時代の経験から齎された自然のイメージが第一にあったのでしょう。つまりこの自然は彼の故郷なのです。ボヘミアの大自然、あるいはウィーン西の森といった情景なのでしょう。

序奏部から提示部にかけて、暗闇から霧が晴れるようにして進む様は春の幕開け・夜明け、と言うよりもむしろ、彼の人生の夜明け、すなわち自我の目覚めを象徴しているかのようです。冒頭におけるクラリネット(ハンブルク稿ではホルン)のファンファーレは、後の2番(“復活”)の主題として出て来るものであり、この部分こそまさに”人(ここではマーラー本人)”または”英雄”の誕生を表しているように思うのです。

この序奏部を一連の流れで記述すると以下のようになります。
フラジョレット開始(弦楽) → 4度下降動機+4度下降旋律(木管) → ファンファーレ(Cl.) → 獣の叫び(木管) → 4度下降旋律(木管) → ファンファーレ(Banda Trp.) → 4度下降旋律(高弦)+カッコウ(Cl.) → パストラール(Hrn.) → ファンファーレ(Banda Trp.) → パストラール(Hrn.) → ファンファーレ(Banda Trp.)+カッコウ(Cl.) → 苦悩の動機(低弦,3楽章主題の元素)+4度下降動機(木管) → カッコウ(Cl.,Fl.) → 提示部(Vc.)

バンダから突然聴こえてくるトランペットのファンファーレは、これまたベートーヴェンの”フィデリオ”のレオノーレ第3番序曲を思い起こさせます。それにしても最初の交響詩(交響曲)にしては随分と飛ばしすぎです。頭のネジが数本飛んだリストの交響詩のようです。これでも”嘆きの歌”の第1稿に比べたらまだ可愛い方かもしれません。バンダをオペラの外の交響曲に持ち込んで来るあたり、流石は当時の先進気鋭の作曲家だと思わせます。

このバンダのトランペットは、夢か現かは兎も角、幼い彼の元へと降りてきた天使から告げられた神託、すなわち”あなたは生涯、音楽で身を立てて生きるのです”という神託を受け取っている場面に思えてなりません。バンダとは舞台の外、この場面では自然の外、彼にとっては現世の外も同然です。現世の外からの音であれば天界にいる天使の声、あるいは彼を祝福する天使が奏でるラッパでしょう。

自身の才能に酔いしれていた彼がそれを神託(言い換えれば天賦の才)であるかのように認識するのは、神を愛した彼にとって何ら不思議では無いと思うのです。これぐらい潜在的なナルシストでなければ、(当時の)現代音楽作曲家や宮廷歌劇場監督なんか務まるはずがありません。一方でもっと単純に、自然と戯れていた少年時代のある日、たまたま遠くから軍隊のラッパが聴こえて来て、自然の響きとの偶発的・運命的なアンサンブルにインスピレーションを感じただけかもしれませんが。

尚、バンダから響いてくるトランペットのファンファーレは3回あります。最初のクラリネットも含めれば4回になります。クラリネットを”マーラーの誕生”とするなら、1度目のラッパは”誕生の祝福”、2度目のラッパは”才能の祝福”、3度目のラッパは”自我の祝福”を象徴しているのでしょう。最後のラッパの啓示によって自我に目覚めてしまったばかりに、苦悩の動機に見られるように彼は苦しむことになります。人間誰しも一度は通る、思春期と青年期を迎えてしまったのです。この事は1楽章展開部と3楽章の所で詳述します。

カッコウの音型(4度下降動機)からそのまま歌を歌うような主題に変化させ、どんどん発展させて行く提示部には頭が下がるばかりですが、これは旋律のインスピレーションの根源が自然にあるのだ、と言っているような気がします。自然の響きと人工の旋律(主題)を分けなかった、むしろ彼にとっては元々不可分であり分ける意義が無かったのです。彼が後に”音楽のポリフォニーと自然のポリフォニーの唯一の違いは、芸術家がそれらに秩序と統一を与えて、ひとつの調和に満ちた全体を造り上げることだ”と宣ったのは、まさにこの事なのです。彼はド田舎の大自然の真っ只中に作曲小屋を建てるような人です。そう考えていても全然おかしくないと思います。

この提示部の主題は、彼の歌曲”さすらう若人の歌”第2曲”朝の野原に歩けば”の旋律と共通しています。バックのオケも実にそっくりです。この曲の歌詞も非常に若々しく、自然の美しさに喜びと楽しさを見出す彼自身の情熱が満ち溢れています。そのため彼の青春時代は、おもむろに自然に飛び込んでは野山を駆け回り、音楽に情熱を燃やしたやる気と自信満々な気持ちで一杯だったのだと思わせます。

4度下降動機から始まる第1主題をチェロで提示しているのも実に意味深だと思います。チェロは極めて男性的な楽器だからです(フェミニストから怒られそうですが)。この主題を歌うのはチェロと言うより、むしろマーラー本人だと思った方がしっくり来ます。それから直ぐ、現世に降り立った天使のトランペットがその主題を復唱し、終いにはホルンが象徴する大自然までもが歌い始めるのだから、やはりこれこそマーラーの音楽的世界観だと思いたくなります。人・天使(神)・自然。それらは常に一体なのです。彼の世界を構成する根本要素であり、生涯を通して愛したものなのです。

1楽章コーダ(再現部)のファンファーレは、そういった青春時代の彼のリビドーが発散された結果だと思います。序奏部のトランペットのファンファーレが大々的に歌われる様は、まさにこの世に生まれた事、音楽の才能を享受した事、あらゆる物を愛する事の悦びを最大限のテンションでもって爆発させているように感じられるのです。“芸術とは爆発である”とは良く言ったものですが、これもその1例だと思います。

1楽章全体をこういう風に捉えれば、概ね幸せなマーラー像と青春時代の情熱が良く分かるので面白いのですが、キワモノがまだ残っています。再現部(ほぼコーダでしょこれ)に入るまでの展開部です。ここには3楽章と4楽章の要素が至る所に散りばめられていて、音楽学的には面白いのでしょうが、中々に解釈に困る場面でもあります。

展開部に入って直ぐ静寂な自然の情景に戻ります。再びカッコウの鳴き声が響く場面、つまりオーケストラの大部分は自然を表しています。ここでマーラーは登場人物を出してくるのです。とりわけ目立つのはチェロとハープでしょう。それらチェロ・ハープ・オーケストラ(自然)が重なる場面があります。チェロの動機は展開部に入ってから現れるもので、行く行くは旋律にまで発展していくものであり、どう考えても自然の調べではありません。提示部第1主題を最初に出したのもチェロです。従って、自然に対して語りかけているようなチェロもやはり”人”であり、ハープの方も3楽章の主題(コントラバスソロのアレ)の原型動機であることを鑑みれば”人”であると解釈するのが妥当だと思います。

では一体、チェロとハープは如何様な”人”を表しているのでしょうか。ハープの方は分かり易いでしょう。3楽章におけるアマチュアリズムの権化のような主題から、ここのハープは”死にそうな暗い未来のマーラー”なのです。3楽章のコントラバスソロを、”自分がこのまま誰にも認められず、何処にでもいる凡庸な音楽家して犬死する事を自ら皮肉った音楽”であると解釈すれば、やはりハープもそんな彼の象徴、あるいはその前兆・予告・予知なのです。

ここまで来ればチェロの方も分かる気がします。チェロは”未来を憂う現在のマーラー”なのです。展開部の冒頭では自分を慰めるかのような’か細い’旋律ですが、暗闇と霧の情景が晴れると、提示部で出てきた主題と交互しながら華々しく歌うようになるのです。そんなチェロの起用法を、「未来は怖いけれど、今はこうして音楽を楽しむことが何より楽しいのだ」という彼なりのメッセージとして受け取れるのではないでしょうか。同時期に作曲された”さすらう若人の歌”の歌詞を読むと、そんな思いが尚更強くなります。

つまり1楽章展開部のこの場面は、若き日のマーラーが自然の中で一人悶々と憂い悩んでいる描写なのです。悩みの相談に答えてくれるのはカッコウだけ。もちろん話の内容なんて誰も理解しちゃくれない。4度の音程によって”カッコウ”と鳴き返されるだけ、どこか哀愁の漂うパストラール(牧歌)が響くだけなのです。何とも寂しい孤独な音楽だと思います。


●2楽章:”マーラーの友情”

1楽章では結局、人間はマーラー本人しか出てきませんでした。2楽章で彼は自然から離れ、人間社会の中で生きる彼の喜びについて述べられている音楽だと解釈すると私はしっくり来るのです。

この2楽章が彼独自の音楽であれば何もそこまで思いません。この音楽は明らかに、彼の友人ハンス・ロットが作曲した交響曲第1番3楽章の主題からの影響・引用が見てとれるのです。ロットの交響曲からの引用は何もこの1番2楽章に留まらず、後の2番3楽章なんてほぼ丸パクリで引用される上、他の細かい部分においても数多く引用されるのです。そこにマーラーの友情を見ようとするのは、そこまでおかしい事では無いように思えてなりません。

マーラーにとってのロットとはウィーン音楽院・大学時代の仲間です。机を並べてブルックナーから和声を学んだ同学の友なのです。音楽に至上の楽しさと喜びを見出していたマーラーにとって、互いに切磋琢磨できる先輩・友人が居た事はプラスになっていたに違いありません。マーラーは作曲においてはブルックナーの門下生にならず、ブラームスには後に知古を求めに伺った事はあっても、ひたすら独自路線を突き抜けていった彼には師と仰ぐ人がいなかったのです。であれば尚更友人が大事になってくるのではないでしょうか。

マーラー1番の元となった交響詩”巨人”を構想している時点で、既にロットはこの世から居なくなっています。若くして亡くなったロットの音楽を、自身の曲の中で再現して普及しようとしたのだ、彼の魂を音楽の中で生き続けられるようにしたのだと見るのも、人道的には間違っていないと思います。もちろん根拠はありませんが… 2楽章のレントラーは、そんな彼らの楽しかったウィーン学生時代の思い出の日々であり、ロットへの弔いでもあるのです。


●3楽章:”マーラーの自虐”

マーラーが偏に気難しい人間であるように思えるのは、暗と明、自然と人間、低俗と高尚、悲観と楽観、絶望と希望、地獄と天国、混沌と秩序といったような、対立する二元論的要素を1曲の中、むしろ1楽章の中にも平気で放り込んで来るためです。この1番3楽章はとりわけそういう取り付き辛さを感じる人が多そうです。

3楽章冒頭部、コントラバス奏者(ハンブルク稿では+チェロ奏者)が弱々しく超簡単な童謡を短調で弾くのは、既に誰かが作った完成作品である童謡を短調にするぐらいしか能がない、それぐらいしか弾くことが出来ない事を表す、謂わば在り来りで無能なアマチュア音楽家の象徴でありパロディなのです。

マーラーのような人間を理解できる人は、そういった他者や社会への批判・口撃が結局自分の心へ返ってくる事を良く知っています。つまりその対象が自分自身でもあるのです。最も憎むものの本質が自分の中にある、ただの同族嫌悪である、というのは往々にしてあることです。自覚できるかどうかは別問題ですが。

このコントラバスソロもそういったものの1例だと思います。1楽章展開部の所で言及したように、これは”自分がこのまま誰にも認められず、何処にでもいる凡庸な音楽家して犬死する事を自ら皮肉った音楽”なのです。他の無能な音楽家を嘲笑っているようで、本当はマーラーが自分自身を笑って皮肉っているのです。この曲を作曲している時点での彼は、作曲だけでは食って行けない、音楽家といて成功している・満足しているとは決して言えない状況でした。周囲との衝突、報われない恋愛、社会から認められない自我と音楽、自信過剰な才能の裏返しである極端なアマチュア志向、不確定な将来、このまま何も変わらないのではないかという不安。

そんなどうしようもない現実と悲観的な将来像から齎されたイメージが、コントラバスのソロとして音楽になっているのです。人生に迷い、宛もなく彷徨う人を見ているかのような空虚の音楽なのです。無能な音楽家として死んでいく自分を弔う葬送行進曲なのです。コントラバスの後に続くおどけたようなオーボエの対旋律や、ユダヤ民族臭がプンプンする俗物の極みのような”ちんどん屋”の音楽は、そういった無能音楽家や自分自身を思いっきり茶化すものなのです。装飾音符を伴って急上昇するフレーズは、嘲笑、諧謔、断罪、”Nein!”や”Nicht!”という否定の象徴です。3楽章とは謂わば自虐と皮肉の芸術なのです。

ハープに導かれて進む中間部の場面は、後の彼によるアダージェットのようで非常に美しい調べではありますが、結局暗い主部の場面に戻り、後はただただ下へ沈んでいくだけになります。童謡のパロディの世界から一時は抜け出して、本当の作曲とはこういうものだ、音楽とはこういうものだ、愛とはこういうものだと訴えてくるのですが、それも今の時点では無意味であると諦めて彼は悟るのです。

尚、この中間部は”さすらう若人の歌”第4曲”彼女の青い眼”の旋律から引用されているため、彼の失恋(ヨハンナ・リヒターにフラれた事)の嘆き、苦しみ、未練タラタラな心境、それでも尽きない愛おしさを表しているとも取れるでしょう。ベルリオーズといいワーグナーといいマーラーといい、恋愛に敏感な御大が作る曲はやはり極めてロマンティックです。ブルックナーの音楽がブルックナーらしいのは必然のように思えてなりません。マーラーは麻薬に手を出さなかっただけましなのか、それとも素面(しらふ)でこれだからもう手遅れなのか… そこは聴き手一人一人が判断する事でしょう。


●4楽章:”マーラーの愛の勝利”

4楽章冒頭のシンバル・トランペット・ティンパニの強奏は、そんな彼の頭上に降ってきた神の雷であり、下降音型と共に地獄の底へ向かって真っ逆さまに落ちていくのです。一度落ちきった後には、1楽章コーダ(再現部)直前に現れた上昇旋律でもって、何とか這い上がろうと四苦八苦します。直ぐにでも這い上がろうとするのですが、地獄の釜の蓋を塞ぐようなシンバルとティンパニに邪魔をされて何度も蹴落とされます。この這い上がろうともがくトロンボーン・トランペットこそ、地獄のような現実を生き長らえている彼自身のように思えてなりません。

地獄から力ずくで這い上がる事に諦めを付けると、何処からかヴァイオリンによる優しい調べが聴こえてきて落ち着きを取り戻します。音楽や愛への情熱はたとえ地獄にいようが関係無いのだ、永久に不滅なのだと訴えているようでもあります。

そうこうしている内に、今度は1楽章冒頭部の4度下降旋律が戻ってきて、這い上がる希望の象徴である上昇旋律と地獄の象徴である下降旋律がせめぎ合います。1楽章の喜びや楽観気分をこのまま取り戻して地獄を脱出するのか?と思いきや結局まだまだ地獄なのです。ここからが展開部です。こういうところは本当にマーラーらしいと言うか嫌らしいと思います。

マーラーの嫌がらせは続きます。静かになった所でホルンに”人”の動機(1楽章冒頭のクラリネットのファンファーレ)が出てきて、トランペット・トロンボーンに天国の動機が出てきます。ここからやっと天国に逝けるのか?と思いきや結局まだまだ地獄なのです。七転八倒とはまさにこの事です。そう簡単に極楽浄土に逝かせるつもりは無い、つまり自分でも逝けるとは考えていないのです。抜け出したいけど抜け出せない、そんな彼の悶と苦しみを表しているのです。

その先になってようやく、ホルンの上昇旋律がトランペットの下降旋律に打ち勝つことで地獄からの脱出を達成します。完全体となった天国の動機が今度は大々的に歌われ、地獄のような生活に今度こそお別れを告げるのです。1楽章冒頭で提示されていた4度下降旋律が天国の動機と一体化し、天国の旋律としてホルンによって更に歌われるのです。青年期以降の人生においても、最も大事なものは青春時代にあると言わんばかりなのです。

「そうだ!これって交響曲だったよね?」と言わんばかりの長い再現部がここから始まります。1楽章の自然の情景が戻ってきます。あぁ、現世って本当に良い所ねと思わせます。着いて直ぐ、地獄で紡いたあの美しい音楽がリフレインします。現世の自然界に戻ってきて早々、今度は何と地獄のパロディが始まるのです。

ヴィオラの割り込みから地獄のパロディ度合いは一気に強まり、軽快な調子で地獄の情景を描いたかと思えば、そのまま1楽章コーダ(再現部)と同じ場面まで持っていきます。ここに来て若き青春時代のリビドーが完全に戻ってきたのです。正真正銘のコーダに、ここまで来てやっと到達します。このフィナーレでは金管のファンファーレによって天国の情景が描かれ、ホルン(+4番トロンボーン)によって天国の旋律が高らかに歌われつつ、4度下降動機でもって終曲するのです。

最後の最後には彼マーラーのリビドーが全てを超越するのです。生きるも死ぬも地獄とは良く言ったものですが、自然を愛し、音楽を愛し、人を愛し、神を愛することの楽しさと喜びさえ忘れなければ、死さえ恐れるに足らない、地獄さえ恐れるに足らないと宣言しているのです。彼にとって生きるか死ぬかは、自分が何処にいるのかではなく、自分が何を思っているかなのです。何も思わず何も考えないのであれば、それは死んでいるも同然なのです。ひとえに現実の世界とは、その意識一つの在り方で地獄にも天国にもなり得るのだと訴えているです。


●総括:”マーラーの1番は彼自身の人間喜劇”である

全楽章を俯瞰してこの曲を一言で言うなら、彼マーラーの人間喜劇なのです。1楽章では自身の誕生とリビドーへの目覚めを描き、2楽章では自身と友人との思い出を描き、3楽章では人生に迷う自身とそれを笑う自身を描き、4楽章ではそんな生き地獄からリビドーで持って天国へと駆け上る自身を誇大広告的に描いているのです。

“巨人”というのはジャン・ポールの小説に出てくる主人公の事でしょうが、その”巨人”と同じように、このマーラー1番に出てくる”人”とは徐々に精神的な成長を遂げていく、紛れもないマーラー本人なのです。生まれてから当時に至るまでに蓄積された、青春の日々、自然・音楽・人・神を愛する悦び、人生の悩みについて、赤裸々に且つロマンティックにぶつけて来るものなのです。


■巨人の正体その2:”巨人は友人ハンス・ロットである”説

後のマーラーの2番”復活”の事を考慮すると、尚更こっちの説を信じたくなるのが”巨人=友人ハンス”説です。

マーラーの1番1楽章にはロットとの関係性が無いように思いますが、”友人ハンスとの青春の日々”と捉えることもできると思います。流石に無理矢理な気もしますが、トランペットの偏重はロットの交響曲のそれと似ているのも事実です。ところが2楽章には、決して言い訳ができないロットの音楽との関連性があります。既に上述した通り、ロット1番3楽章の主題とマーラー1番2楽章が実に良く似ているのです。マーラーはロットの音楽が好き過ぎるのです。この脈絡から、マーラーの1番2楽章は”友人ハンスの音楽と思い出”というべきものなのです。

3楽章は”友人ハンスの挫折と死”というべきものです。オルガニストとして活動しつつ作曲家としても飛び立とうとしたロットに、突如として絶望が襲います。自信満々にできあがった彼の渾身作・交響曲第1番が、ブラームスからコテンパンに否定され、作曲家の道は諦めるべきだと論されてしまうのです。結局、ロットはそのまま精神を病んで発狂してしまい、病院の中で肺を患った末、わずか25歳という短命でその生涯を終えてしまいます。この時のマーラーは23歳。その死を受け止めるには若すぎると思うのです。

この3楽章のコントラバスソロは、そんな“か弱きロット”の様を描写していると解釈してもおかしくは無いと思ってしまいます。人生の袋小路に嵌ってしまったロットそのものを表しているかのようです。3楽章の最後は、そのまま静かに息を引き取るかのようにして終わるのです。3楽章は絶望に打ちひしがれたまま死んでしまった、ロットの最期の生涯そのものでもあるのです。

この調子で行けば、4楽章は”友人ハンスの死後の世界”と解釈することができます。地獄に落ちるのも天国に昇るのも、マーラーではなくロットなのです。地獄は地獄、天国は天国であり、現実の生き地獄や桃源郷では無いのです。ロットは一度は地獄に落ちるであろうが、必ず天国に昇っていって欲しいというマーラーの意思の表れである気がしてならないのです。もしもマーラーの2番”復活”が、ロットのための葬礼音楽であり彼の復活を夢見たマーラーの音楽であると解釈すれば、尚更このように感じられて仕方なくなります。

マーラーの1番を”友人ハンスとの青春や音楽、彼の絶望と望まれぬ死、死後の世界”であると解釈するのが”巨人=友人ハンス”説です。もう一度改めて書いておきますが、”巨人は誰でもない”のです。直筆の手紙や資料が無ければ夢のまた夢、ただの妄想話にしかならないのです。

上乃木 燕二
クラシック音楽のブログを運営しています。後期ロマン派〜新ウィーン楽派がメイン。交響曲ネタが多目。オペラ・室内楽を扱うべく奮闘中。元トロンボーン奏者。チェロやりたい。マーラーとテンシュテットが心の師匠。