マーラーの交響曲第3番に想うこと

マーラーの交響曲第3番とは“人と自然”の芸術です。

しかしながら、私にはどうにもこの曲を単純で分かり易い”田園交響曲”や”自然交響曲”のように聴こえる気がしないのです。”夏の交響曲”と言うのも良く分かりません。なのでこの曲をどう見ているのかここにまとめておきたいと思います。


マーラーの音楽には人が出てこない方が珍しいです。彼にとって作曲とは、彼の世界観から一歩引いて見ると自己中心的で個人的な語りと同義であり、自身の人生や周囲の社会(物質的・人間的・精神的・哲学的な意味合いを引っくるめた、極めて主観的な外的世界)といったインプットから齎されたイメージ、情動、時には死生観にまで及ぶ観念といったものを、音楽としてアウトプットするための手段であり目的なのです。”人”というのは往々にしてマーラー自身の事(6番”悲劇的”なんかは完全にそう)なのですが、これに聴衆が聴衆自身を投影できるかどうかで、マーラーの音楽に没頭するのか拒絶するのかが決まると言っても過言では無いでしょう。

マーラーの3番における“人”とは、後年に比べて随分と楽天的で幸せに満ち溢れたマーラー自身であるように思います。故に、この曲に対してグロテスクでドロドロとした内情が溢れ出してくるかのような印象を持とうとすると、多くの場合肩透かしを食らうことになります。”自然”とのやり取りを通じて、自身の生き様を肯定しようとするマーラーの愉しみや喜びの方がどうしても強く伝わってくるのです。

マーラーの3番で厄介なのは“自然”の方です。曲の長さと言う客観的な指標以上に、この曲を難解にしている一番の要素だと思います。この曲における”自然”とは主観的な観念だからです。『この曲における”自然”とは、作曲を行っていたシュタインバッハでの生活と風景から得られた大自然のイメージである』と解釈するのは、あまりに軽薄過ぎると私は思います。完全に間違っているとは言えませんが納得が行きません。この曲における”自然”の世界は、彼の1番1楽章のような単純な森の風景でも無く、シベリウスのような大地に漠然と風が吹き渡っていて人のような有機物がまるで存在しない悟りの世界でもありません。

この曲の”自然”を理解しようとする上で助けになるのが、4楽章で引用されているニーチェの著作“ツァラトゥストラはかく語りき”、つまりニーチェの哲学です。ニーチェ?哲学??あぁもうこの時点で理解なんてするのは諦めて帰りたくなってしまいます。

ニーチェの思想を咀嚼して私なりの見方をすれば、マーラーの3番における”自然”とは、”絶対的な神が存在し得なくなった人間世界・精神世界”なのです。”隣人愛なんてクソくらえ!自分が自分のためだけに生きて何が悪いのだ!!”と言うかのような、キリスト教の教えによる精神的支配から脱却した、人にとって真に自由な状態こそ”自然”である、という考え方がこの曲に内在しているように思います。言い換えれば、世界観や価値観に対する認識の主体は神ではなく人(個人または私)であり、それを能動的に自覚することで、誰からも邪魔も束縛もされず、あらゆる事象や事物に対する認識を改め、純粋に人としての生を愉しむことができるのだ、という考え方があるように思うのです。ニーチェによる反キリスト教的な思想が、ユダヤ教徒としてのマーラーにとって何とインパクトのある思想であったか、または職業音楽家としてのマーラーにとって何と都合の良い思想であったのかは想像に難くありません。

そのような”自然”の中でも、人は生きるべきであり人生は謳歌できるのだ、というのがマーラーの3番で主張されている印象だと私は思います。マーラーの4番もその延長線上にあると言って良いでしょう。こういったニーチェ的認識論に目を付けたマーラーは、自然・人・神に対する認識を対象から自分という個人に向かってやってくる語りとして認識し、ニーチェの著作におけるツァラトゥストラが人々に語りかけるのと同じように聴衆へと語りかけるべく、それらの認識を音楽の題材にしてこの曲を作ったかのように思うのです。この曲の取り去られた2楽章以降の副題が“○○が私に語ること”であるのは、そういう意味があるのだと私は解釈しています。単純で客観的な自然や風景を扱うのであれば、わざわざこのような副題は付けないでしょう。マーラーの3番には私(マーラー本人)が存在するのです。この曲における自然の要素とは、自然そのものではなく”自然に対する認識”なのです。

3番1楽章の取り外された副題である“牧神(パン)の目覚め、ディオニュソスの行進”とは、頼るべきものを失った孤独の世界 ―絶対的な神の呪縛から解き放たれ、新たに人として生まれた音楽青年が認識する世界― へと真っ先にやってきた(自覚した)のは、自然と音楽の神(牧神パン)であり、更に続いて、周りを顧みずそれらに没頭し陶酔することを肯定する神(ディオニュソス)が行進してきたという事です。神が死んだ世界で音楽家が生きがいとするのは自然と音楽そのものであり、その事を賛美するのが1楽章であると言えるでしょう。序奏が終わってからのトロンボーンソロは、まさにディオニュソス的価値観の象徴であるように思えてなりません。文芸・音楽評論界隈で往々にして目にする”アポロン的・ディオニュソス的”という物差しを世に広めた第一人者が、何を隠そうニーチェなのです。

2楽章からはガラッと趣が変わり、マーラーから見た世界や価値に対する認識について、音楽によって滔々と語られることになります。2楽章と3楽章は人として新しく生まれたマーラーによる自然に対する認識です。ニーチェ的世界観に立った認識からもたらされる音楽には、子供のような無邪気さがあり、生き生きとしているように感じます。人間が行き交う都会の喧騒から離れ、ド田舎の大自然の中に身を置いたとなれば、この幼児退行したかのようなピュアさが浮き彫りになっても何もおかしくは無いと思います。人は大自然を目の前にすると心が開放され洗われたかのような気分になり、つい野生に帰りたくなるものです。

4楽章は言うまでもなくニーチェの”ツァラトゥストラはかく語りき”からの引用です。アルト独唱の中にある“深い夢から私は目覚めた!(Aus tiefem Traum bin ich erwacht!)”とはまるで、ニーチェ以前の神学や認識論から目が覚めたと言う独白かのようです。この独唱の歌詞は”深夜の鐘の歌”と呼ばれるもので、ニーチェの言う永劫回帰の象徴でもあるのです。“苦しみは深いが喜びはもっと深い。苦しみは去って欲しいが喜びは永遠に続いて欲しい”というのは、永久の喜びを願わんとする謂わば人間賛歌なのです。この歌が合唱の形式で大々的に歌われず、アルトの独唱にどことなくアイロニーを感じる様には、神は死んだとするニーチェの思想に対するマーラーなりのアンチテーゼのように感じてなりません。

5楽章は教会の鐘の音から派生した、神やキリスト教に対する認識です。天使の合唱を通して、“神は愛すべきものである”または”神はただ愛としてのみ把握されうる”というマーラー独自の宗教観を露わにします。マーラーにとって神は死んでいないのです。理屈や哲学において神は死んでいるかもしれませんが、彼自身の中には間違いなく神が存在していたのです。

そして最後の6楽章にて、愛(=神)に対する認識が音楽として紡がれるのです。如何に万能では無くなった神とは言えマーラーにとって神は神であり、その本質は愛であると説くのです。神がマーラー本人にとってどれほど愛おしく大切な価値観であるのか、彼らしいLangsamによる美しい音楽として聴衆に語られるのです。失われつつあった神の存在意義に対する、マーラーなりの抗いであり愛情表現であると見て取ることもできるでしょう。

つまりマーラーの3番とは”人生における幸福とは何か?”という問いに対する、マーラーなりの解答であり体現であるのです。マーラー3番にかつて付けられていた副題である”幸福な生活”や”悦ばしき知識”とは、ニーチェの思想に立脚したものの見方・幸福観にマーラーが共感していたことの証左です。この”マーラー幸福論”とでも言うべき曲に人間同士の幸せ(家族愛・恋愛)が無いのは、マーラーのそれまでの相次ぐ家族の死去、友人ハンス・ロットの死去、本曲完成前年における弟の拳銃自殺といった不幸による所が大きいのではないかと思います。

楽章毎にマーラー流の幸福論(幸福な生活)をまとめると、

  • 1楽章:自身と自然と音楽に対するディオニュソス的価値観 → 人生は自己陶酔してナンボのもんじゃい!
  • 2,3楽章:自然に対する認識 → 自然とありのまま戯れるのはメッチャ楽しい!
  • 4楽章:人に対する認識 → ニーチェの永劫回帰ってイイね!苦しみが来ても喜びで救われるのだ!
  • 5楽章:神に対する認識 → 神は愛してナンボのもんじゃい!つまり神って愛そのものなんじゃね?
  • 6楽章:愛(=神)に対する認識 → 哲学的に神は死んでも、私の中の神は永久に不滅なのだ!

ということになるでしょう。あくまで私流の解釈ですが。ニーチェの永劫回帰を肯定しつつ神を否定しないのはダブルスタンダードなのでは無いか、という一見全うそうに見える冷静な意見がありそうですが、マーラーがそんな単純な人間だったらこんな交響曲を作らないと思います。我々のような凡人とは違うのです。彼の心は繊細にして複雑なのです。

ニーチェだろうが幸福論が何だろうが、結局ここで言及しているのは”人が人らしく”なんていう理想論であり、今更そんな当たり前のことを言われてもと思う方もいるでしょう。キリスト教に馴染みが薄い方にとっては何を言っているのか分かり辛いかもしれません。神や宗教による救済にしか幸福を見いだせない人達にとって、ニーチェやマーラーのような考え方は掟破りの無作法にも程があり、こうも人間本意な幸福を堂々と述べるのは異常極まりないことなのです。この曲に対して単純な”田園交響曲”と見做しているかのような感想が見られるのは、宗教について無教養で神に対する信仰が薄い日本では自然な事のように思います。仕方がないということです。


// 編集履歴
2017年12月05日 初稿投稿
2017年12月19日 記事を分割

上乃木 燕二
クラシック音楽のブログを運営しています。後期ロマン派〜新ウィーン楽派がメイン。交響曲ネタが多目。オペラ・室内楽を扱うべく奮闘中。元トロンボーン奏者。チェロやりたい。マーラーとテンシュテットが心の師匠。