感動を捻じ曲げる者達

“感動は誰がつくるのか?”

2018年の平昌オリンピックが終わってからしばらく経ちました。スポーツ観戦はプロ野球以外ほぼ興味が無い私にとって、オリンピックは夏冬関係無くあまり興味を持てません。“再来年は東京で開催だと言うのになんだ!非国民だ!”なんて言われそうですが。

とは言えオリンピックやその結果を何も知らないでいるのは、一般常識に欠けるのも事実であるため、ニュースやメディアを通じて色々調べる訳です。

その中で個人的に、オリンピックを通して様々な違和感を感じざるを得ませんでした。素直に楽しめないのは不幸であると思いますが、それが本音なので仕方ありません。再来年の東京五輪を前に感じた・思った違和感をまとめておきたいと思います。

それらの違和感の原因は、冒頭の“感動は誰がつくるのか?”という命題への解にあると私は思いますが、様々な側面から考えてみたいと思います。


■感動はメディアがつくるのか?

スポーツ選手と我々観戦者の関係は、音楽や美術・文芸で言う供給者(作曲家、演奏家、画家、作家等)と消費者(聴衆、読者等)の関係と似ている側面があるように思います。特にオリンピックでは、各国の代表選手達による人並外れた演技や結果を、全国にいる私のような一般人が見聞きして消費し、楽しみ感動する訳です。

ところが、現地観戦という例外を除いて、オリンピックには芸術や文芸の世界と決定的に違うものがあります。消費者に対するメディアの影響力です。昨今のオリンピック報道を見る限り、選手という本来の供給者以上にメディアというブローカーが供給者の振りをしていると言って良いと思います。

TVの生中継を見ても、テレビ局が雇った解説と気持ち悪いほど熱狂した実況が介入してくる上、ニュースでは結果と共に現地の取材陣からの質疑応答が含まれます。演技と結果だけ知れれば十分なのに、それ以上の蛇足があまりにも多すぎる。

日本人がメダルを取ってしまったらもう見てらんない。メダルを取った選手の家族だの、その選手を応援する人々だの、その選手を支えてきた人物だの… これらの蛇足が、輝かしい結果が出た競技時間の何倍・何十倍もの時間を使って報道されているのは事実です。

メディアが何故そんな事をするのか?理由は明白です。消費者に“感動のストーリー”を提供したいがためです。そうする事で、日本人がメダルを取ることは素晴らしい・オリンピックは感動できる・応援は選手の力になるという事を消費者の心に刷り込みたいのです。今年の状況に限って言えば、再来年の東京五輪を盛り上げるための下準備を兼ねていると言えるでしょう。それが盛り上がらないと困るのはメディアだからです。

感動できれば何だって良い人にとっては、感動をメディアがつくることに疑問を持たないでしょう。しかしながら、これではまるでメダルの価値やそれを取れた理由は、選手本人による日々の泥臭い努力や能力によるのでは無いのだ、と言わんばかりではありませんか。それはおかしいと私は思います。

本当に凄いのは誰なのか?感動できるものは何なのか?選手と能力と演技と結果に決まっています。それ以外のものは派生的な尾ひれでしかありません。

感動をつくるのは誰か?私は声を大にして言いたい。選手達であると。メディアや応援ではないと。それを勘違いしているメディアや観衆が多すぎるのではないのかと。

尚、一昔前のクラシック音楽批評でも同じことが言えました。実際の演奏や音楽より、頭のおかしい批評家連中の罵詈雑言が物を言った時代がありました。構造はやはり全く同じです。芸術にもスポーツにも、感動にブローカーは全く必要無いのです。


■本音を語る選手・語らない選手

ここで少し具体的な話にしたいと思います。メディアへの取材対応で私が一際目を見張ったのは、フィギュア・スケートの羽生結弦選手のやり取りでした。その次はスノーボード・ハーフパイプの平野歩夢選手。どちらの方も他人の目や耳を気にせず、言いたい事を誤魔化さずに言っちまうタイプのようだと私の目と耳には映ったからです。それが意図的か天然かの違いはあるように思いますが…

付け加えるなら、表彰が終わった後の羽生選手・宇野選手の合同インタビューも良かったと思います。この時の宇野選手に限っては、色々吹っ切れていて、メディアの前でも言うときは言う男なのかと少し思い直しました。

これらの取材対応を見聞きした後だと、他の日本人メダリストによる取材対応がおしなべて形式的な建前のように聞こえてならなくなりました。その建前というのは、“メダルを取れたのは自分のおかげ”と匂わせる事は言わず、“メダルを取れたのは応援・支えてくれた皆様のおかげ”と言うのと、“とにかく楽しかった”と言うのを不気味なほど揃って口にしていたことです。ホンマにそう思っとるん?と疑ってしまうのです。

中には本当にそう思っている良心的な選手もいるでしょうが、みんながみんな同じような事を言うのは、やはり不気味だと感じて然るべきだと思います。JOCだかお国からの忠告だか知りませんが、メディア対応についてのルールが選手内に存在しているかのような臭さを感じます。私が聞きたいのはそんな建前ではありません。やはり選手一人一人が感じたまま・思ったままの本音が聴きたいと思います。

もしもそのようなルールがあるとして、大部分の選手達がそれを守っていると仮定すれば、これほどメディアを付け上がらせる材料は無いと思います。選手がメディアの思う壺であればあるほど、感動の供給者は選手からメディアへと重心が益々シフトして行きます。言い換えれば、取材を通じて消費者に伝わることが、選手が語りたい事からメディアが語りたい事にシフトして行く事になります。

実際にあった取材記者からの質問の中で、“あぁ、この記者はこういう応えを期待しているな?”と言う、質問する前から既に決まった応えありきの質問があからさまに分かるシーンが目立ったのは、私一人の気のせいでは無いと信じたいです。

これは本来あるべきジャーナリズムの崩壊と言えるのではないでしょうか。私は報道関係者では無いので正直それはどうでも良いのですが、ここで言いたいのは、感動をヤケクソに煽るメディアを作り上げる要因は、本音を語らない選手の取材対応にもあるのではないか、と言う事です。上記の仮定が正しかったとすれば、メディアに良いように利用されている選手達が哀れでなりません。

このままでも恐らく、世間や世論の大多数は満足しているのでしょう。あるいは、現実のメディアに理想的なジャーナリズムを期待する方が間違いであると悟って受け流すのが賢いのかもしれません。それでも私はやっぱり、競技の様子と結果の他に知りたいのは、選手の本音トークだけだと言いたいのです。感動は選手がつくるものなのだから。


■応援は誰のためなのか?

自分の自己満足のためです。応援する自分自身がより深く感動したいがためです。頑なにメディアが認めたがらない事実の1つであるように私は思います。

選手の身内以外による応援に正当な理由、すなわち遠隔地における赤の他人による応援が選手の力になるという屁理屈を正当化させたいのは、やはり再来年の東京五輪を盛り上げたいからに他ならないと私は思います。

そんな綺麗事を当たり前かのように報道する・考えているメディアや観衆を見ると怖気が走ります。生中継のモニターの前で集団応援する光景をなぜTVで流すのか、理由は分かってもそれが意図することを私は感じないのです。同じように感動できないのです。むしろ気味が悪く思います。まるで宗教儀式のようだな、と。


■アスリートはナルシストたれ

世間の一部では、羽生結弦選手の言質と態度に対して批判もされているようです。批判する事自体は悪くなく、勝手にしやがれと思いますし、話題を呼ばない事よりは100倍もましだと思いますが、納得がいかない側面があります。

私個人としては、オリンピックのような世界レベルで活躍するトップアスリートはナルシストであるべきだと思います。

オリンピックに出場するなんて我々一般人にはまず不可能です。それまでに積み重ねてきた努力、本人の持っている才能、競争を勝ち抜いてきた結果に至るまでの全てを誇って然るべきだと思います。それらを謙遜するのはおかしいと私は思います。

“お行儀の良いアスリート”の方がメダルの価値が上がるのでしょうか?“応援を力にできた”と語る方がメダルの価値が上がるのでしょうか?一般人の一般社会における屁理屈や建前をアスリートに求めて何になるのでしょう?私にはその意味が全く分かりません。

選手がナルシストであると批判する背景には、“選手と観衆は対等であるべき”という博愛・平等主義的な価値観があると思います。とんでもない!命の価値は平等だとしても、オリンピック・アスリートと私のような貧弱一般人の価値が同じ訳であるはずがありません。同じだというなら、今すぐ競技を始めて直近の世界大会で入賞してみせることです。これができないのなら、そう宣う一般人の方が余程傲慢なナルシストだと思います。

アスリートの言質や態度に対して出る杭を打ち、一般社会的な価値観を押し付けようとするのは、アスリートも所詮は同じ人間だから我々と同じ屁理屈が通じて当たり前である、という嫉妬じみた弱者の願望があるように思うのです。とんでもない!!アスリートは強者です。強者に弱者の理屈は通りません。

誤解してはならないのは、“選手は観衆と平等である”と言うのは選手側の理屈であることです。選手と観衆の立場が違うからこそ、価値が違うからこそ機能する、強者が弱者に与える一方的で都合の良い慈悲でしかないのです。それを観衆が逆手に取っても何にもなりません。

これは経営者が“お客様は神様です”と言うのと同じ構造です。自分が神様だと宣う客を有り難がる経営者がどこにいますか?自分が惨めでみっともない客だと自覚できる日は来るのでしょうか?私は来ないと思います。


■メディアの品格

自分たちが感動の供給者であると勘違いしている限り、東京五輪のメディア報道も期待できるものではありません。今回の平昌オリンピックの報道を見た限り、少なくとも私はTVで見ることは絶対に無いと思います。ネット中継がある今、わざわざ気色悪いものを見る必要が無いからです。


■選手の品格

選手が目の前の競技に全力を尽くすのならば、私は彼らが何をしても何を言っても良いと思います。選手に必要なのは品格ではなく実力と結果です。それが分からないバカなメディアや貧弱一般人には、好き放題言わせておけば良いのです。選手の価値には何の傷1つにもならないからです。

ただし、アスリートもビジネスであると言うなら話は別です。競技引退後の生計や進路を考える上で彼らを無視できないとすれば、今回見てきた大多数の日本人選手のように、横並びしたでっち上げの品格でもって無難にならざるを得なくなるのが現実です。理解はできますが、そんな人は私にとって何の魅力もありません。応援したくなりません。


■観衆の品格

私のような貧弱一般人に品格もクソもありません。サルに礼儀を求めるのようなものです。好き勝手にさせれば良いと思います。大多数の人間は、オリンピックで感動のマスターベーションができれば何でも良いのです。理屈は無駄です。バカなメディアによる扇動と共に東京五輪でもバカ騒ぎする、またはそうなっている風に見せかけることでしょう。選手本人達の事なんてそっちのけ、バカのバカによるバカのためのオリンピック、それが再来年の東京五輪となると私は思っています。

上乃木 燕二
クラシック音楽のブログを運営しています。後期ロマン派〜新ウィーン楽派がメイン。交響曲ネタが多目。オペラ・室内楽を扱うべく奮闘中。元トロンボーン奏者。チェロやりたい。マーラーとテンシュテットが心の師匠。